特集アーティスト

Interview with

桑原志織

桑原志織
バラード4番の出だしは、牧者の笛、真冬の湖など
さまざまなイメージを喚起すると語る桑原志織

バラード4番の自由さ「余白」満たす喜び

桑原志織が語るショパン、ベートーヴェン…

「音楽に存在する美しい世界」伝える決意

「自分をとりつくろっていては、ベートーヴェンには向き合えません」

 第19回ショパン国際ピアノ・コンクールで第4位入賞を果たした桑原志織。深い情感とダイナミックな表現力でワルシャワの会場を沸かせ、コンクール後の凱旋公演でも満場の聴衆を魅了した。ショパン作品に限らず、ベートーヴェン、ラフマニノフやチャイコフスキーなどロシアものにも真摯に取り組んできた桑原に、そのレパートリーや学生時代の苦闘、至高の音楽体験について聞いた。

聞き手 藤盛一朗、垣花理恵子◎本誌編集


──ショパン・コンクール後の東京オペラシティでの凱旋リサイタルでは、バラード4番の演奏に特に感銘を受けました。コンクールでも演奏したショパンのこの作品との出会いは。

 今回コンクールで演奏した全プログラム中、一番古いレパートリーはソナタ第3番で、次が《舟歌》、そして3番目くらいに長く勉強しているのがバラード4番です。最初に勉強したのは伊藤恵先生に教えていただいていた大学生のころで、東京藝大卒業時の演奏会でも弾いています。表でも、長く何度も弾いてきた作品です。
 大学のころとはだいぶ感じ方が変わってきています。バラードは、例えばソナタなどとは違ってとらえどころがなく、形式もない。定まらないからこそその時の自分を映しだせると思うのです。今回のコンクールでは、バラードのその特徴を受け入れ、音楽を楽しむことが初めてできたと感じています。

教会の歌、牧者の笛、凍った湖…

桑原志織

──学生のときとの違いは具体的には?

 ルバートひとつとっても学生のころは、ここで速くしたらこっちで遅くとか、計算が先立ちました。先生方からも多様な意見をうかがって、自分の感じる自然なゆらぎが見失われ、つぎはぎのような解釈になっていた時期もあったかと。今はある種の「余白」がうまれています。バラード4番の出だしも、イメージするものがその時によって変わります。遠くから聞こえてくる教会の歌、広い野原に響く牧者の笛の音、家の扉を開けたら凍った湖が眼前に広がっている……そんなふうにいろいろイメージできる「余白」です。その「余白」に喜びが満ちていって、ショパンに対して素直な気持ちで向き合えるようになったというのが大きな変化です。

緩徐楽章の音の引力

──ベートーヴェンのレパートリーについても伺います。ソナタの中で、もっとも大事にしてきた作品はどれでしょうか。

 中心にしてきたのは、最後の第32番です。後期3大ソナタの中で一番長く勉強しています。最後だけれどもシンプルで、これを先に勉強したからこそ、31番や30番にさかのぼったときにその複雑な部分を理解して、楽しめるようにもなりました。
 ただ最初は、32番の2楽章をどう弾いたらいいか、すごく困りました。音楽そのものの美で満ち足りているものを、いかにその美しさを最大限に、わざとらしさを見せずにさらに引き出すか…。緩徐楽章の音楽で、いかに音に引力を、自分の中に推進力を維持するか…。

──ベートーヴェンの演奏を通じて、何を伝えようとしていますか。

 ベートーヴェンは、自分をとりつくろっていては絶対にいい演奏になりません。彼は深い絶望も天国的な思いも抱いた人です。ですから心をむきだしにした状態で、自分を守るバリアを取り払って向き合わなければいけません。そうすると、こちらも精神の乱高下を体験しますが、振り回されているそのエネルギーを音楽として表現すべきだと思うのです。振り回されて、ベートーヴェンと一緒に絶望や希望を味わうというのが個人的には今のところ一番いいスタイルかなと思っています。喜んで振り回されに行くという感じでしょうか。

コロナ禍のベルリン・フィル
音楽があるべき理由を確信

──ピアノに限らず、管弦楽曲やオペラなど、いろいろお聴きになっている桑原さんですが、涙が出てくるような深い音楽体験があったら教えてください。

 2020年のコロナ禍のベルリンで、秋に一時期、コンサートが解禁されたのです。その時にベルリン・フィルを聴きにいきました。指揮はダニエル・ハーディング、プログラムはベルクの《抒情組曲からの3つの小品》と、ベートーヴェンの交響曲第6番《田園》でした。当時は客席も10席に1人程度の割り当てで、満席なのにがらがらという状態でした。
 そこに居合わせられたのは、本当に幸運でした。ベルクの曲は、当時の鬱屈した状況そのもののように響きましたが、そのあとに、ベートーヴェンの6番が演奏された時のことが忘れられません。現実は確かにままならないことも多いけれど、音楽の中では、こんなに美しい世界がどこまでも広がっている。作品の中に世界があるとはいつも感じているけれど、それがこんなにも、無限の広がりを見せるのか。これが世の中に音楽があるべき理由だな、この音楽を聴いているあいだは、自由な世界でただただ美しさに浸りながらいられるな、そう思ったのです。ベルリン・フィルのベートーヴェンの《田園》は、自分もそういう瞬間をつくりだしたいと願う、きっかけとなりました。

この記事は抜粋です。全文は、MOSTLY CLASSIC3月号をお手に取ってお読みください。


Kuwahara Shiori

東京都出身。学習院初等科、女子中等科卒業後、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校に進学。18年3月 東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻を首席で卒業。伊藤恵氏に師事。同年4月より、ベルリン芸術大学大学院にて Klaus Hellwig 氏に師事。2019年ブゾーニ国際ピアノ・コンクール第2位、21年ルービンシュタイン国際ピアノコンクール第2位、25年エリザベート王妃国際コンクール ファイナリスト入賞、25年ショパン国際ピアノ・コンクール第4位。ラザレフ、小林研一郎、飯森範親、高関健、他の各氏指揮のもと、日本フィル、新日本フィル、東響等と共演。ウィーン、プラハ、ドイツ、イタリア、ポーランドなどの演奏会にも招かれ好評を博す。

公演情報

●5月7日(木)19:00 ザ・シンフォニーホール(大阪)
桑原志織(ピアノ)
オール・ショパン プログラム
ワルツ第2番、スケルツォ第3番、舟歌、バラード第4番、ピアノ・ソナタ第3番、ほか

問い合わせ:ザ・シンフォニー チケットセンター TEL)06-6453-2333

●7月18日(土)15:00 太田市民会館(群馬県)
 7月19日(日)16:00 高崎芸術劇場大劇場

ミカエル・ロポネン(指揮)群馬交響楽団
桑原志織(ピアノ)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第2番

問い合わせ:群馬交響楽団事務局 TEL)027-322-4944